今回の妄想記は、まだ見ぬS女様へ宛てた、一種のラブレターのようなものである。 だからこそ、私の願望とするシチェーションの中で 出来るだけ私の心理を織り交ぜながら 書きたかった。 虐げられ、恥辱を受け、苦しさに耐えることが このS女様のためならと、昇華してゆく心理というのが 決して”絵空事ではない”ことを示したかった。 耐えるということが「忠誠心」に繋がってゆく心の動きは独特のものである。 絶対的な支配者としてのS女様がおられ その方の意のままに翻弄され 時には苦痛も 与えられる。 服従を誓うMとしては、逆らうことも逃げることも出来ない。 そのような状況の中で、苦痛に耐えるには・・・・・よりS女様への「絶対服従」を誓い ご慈悲を仰ぐ意外に術はないであろう。 苦痛に耐えるために、さらに深くその「支配構造」の中に身を置く。
この逆説的な構造は、ある意味「宗教」のそれに近いものがあるのかも知れない。 そもそも宗教というもの自体、現世の"苦痛"からの(ある意味)避難システムなのだから。 ”汝、右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ!” この言葉は、後世、隣人愛の象徴として引用されることになるが 本質は”開き直り”にあるという考えもある(田川「イエスという男」)。 ローマの圧制、その絶大な権力に苦しんでいる古代ユダヤの一般民衆にとって 右の頬を打たれた場合、一体、どのような抵抗が出来るのか? 何も出来やしない! 絶対服従を誓い、ご慈悲を仰ぐ意外にはないだろう。 否、あるとすれば、ただ一つ! 右の頬を打たれたら・・・「じゃぁ! 左も殴れよ!」と頬を差し出す。 ローマの権力者が来て殴りやがった! 仕方がないんだよ! もう片方の頬も向けてやれ! イエスは宗教家ではない。 一級の哲学者であり思想家であった。 反逆的な思想家として、イエスは「絶対服従」を誓う道を選ばなかった。 その後、イエスの言葉は、歪曲され「愛のキリスト経」として 支配体制維持のシステムの中で利用されてゆくことになる。 だが、いずれにせよ、その後2000年に亘って 絶対的な支配者、現世・・・に苦しむ民衆は、その苦しみに耐える時 絶対的な存在としてキリスト経を信じ その先にある「絶対的な心のやすらぎ」としての「神」を見ることになる。 これらの構造で異なる点は、ただ一つ絶対的な支配の属性だけである。 前者は、S女様が構築する"闇"の世界の中での権力であり 後者は巧みに構築された社会システムとしての権力である。 私には、イエスがローマの絶対支配に反逆を繰り返したように S女様の絶対支配に抗し反逆する理由は一切見当たらない。 むしろ、後世のキリスト教者と同じように、絶対的な存在としてS女様を信じ 「絶対的な心のやすらぎ」として崇めるだけである。 「絶対的な心のやすらぎ」の中に「神」は居る。 だから、私にとって、S女様は、やはり「神」なのだ。
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